/ 岡崎裕子(陶芸家)
華やかなファッションの世界から陶芸家へ転⾝
「湧き上がる思いが抑えられなかった」と彼⼥は⾔う。かつて抱いていたモノづくりへの思いが再燃したのは、23歳の時。ファッションブランド『ISSEI MIYAKE』に就職、A-POCというプロジェクトで担当プレスに抜擢され、三宅⽒のクリエイションを間近で⾒て、触れてきた。その経験が、もともとデザイナー志望だった彼⼥の願いをより強くさせたのだろう。
「チームで一つのプロジェクトを作り上げていく日々は充実していたし、楽しかったけれど、私はやっぱり自分で作りたかった。とはいえ、資本の大きな世界で三宅さんのようなカリスマ性を持って挑み続ける大役は、私にはできない。じゃあ自分がしたいモノづくりってなんだろうと考えたとき、1から10まで自分でつくる手仕事だったら私にもできるんじゃないか。思い巡らせ辿り着いたのが、陶芸の世界でした」
そうやって岡崎裕子さんは華やかなファッションの世界から、陶芸家への道を決意する。まったく陶芸経験のない、ズブの素人だったと笑う岡崎さん。美大を卒業したわけでも、陶芸の産地につてがあるわけでもなかった彼女に残された道は、弟子入りすること。自分の直感を信じちょうど陶器市が開催されていた茨城県笠間市を訪れ、師匠である森田榮一氏と出会う。友達も家族もいない、見知らぬ土地でひたすら土と向き合った4年半の修行生活を振り返り、改めて思う。ファッションから陶芸の世界への転身に迷いはなかったと。
「修行期間は23歳からの4年間。後半年は、森田先生の推薦で陶芸の専門学校に行き、釉薬の勉強をして晴れて修行期間は終了。同級生の友人たちは20代を謳歌している一方で、比べると自分が見窄らしく惨めな思いをしてしまいそうだったので、距離を取ってひっそりと生活していました。今でこそ好きなことを仕事にしたいと転身している方は多いですが、当時としては先駆けた方。まわりの友人たちは驚いていました。大きな変化をするにはポジティブな気持ちだけでなく、当然不安やネガティブな思いもありました。不安半分、ワクワク半分だったけれど、三宅さんの下で、10年20年働き続けるイメージはできなかった。陶芸にそのイメージがあったのかというと、そうではないけど、変化とか新しいことを始めるとか、自分でものを作るとか。自分でハンドリングできる仕事がしたいという強い思いが、私に人生で一番大きな決断をさせたんだと思います。若さゆえというのも、少なからずあったとは思いますけどね」
自分で窯を持ったら独立という考え方がある陶芸の世界。岡崎さんが横須賀に窯を持って今年で13年が経つ。最初の頃、制作しては日本各地を飛び回り個展を開催。許される時間はすべて陶芸へ捧げていた。子供が生まれてからは、年6回のペースで行っていた個展も年1回に。それでもその1回を楽しみに待っていてくれるお客様がいたから続けられた。子供の成長とともにその回数は再び増えていく。何よりもそれが彼女にとって創作の原動力になっているから。
「今定期的に個展を開催できていることと、私の作品を待っている取引先やお客様がいることが、創作意欲を掻き立ててくれています。作り続けることがルーティンのようになっていて、途切れずに仕事をしていることが、次の創作に繋がっていく。作っているとき、もういやだなとか、納期が間に合わないとか、もう作れないみたいな感情になることはなくて。作れば作るほど、楽しくなってくる。そこから新しいものが生まれてくるんです」
修行期間から現在に至るまで、陶芸をやめたいと思ったことや、行き詰まったことは一度もない。むしろ創作意欲はずっと湧き続けているという。子供を学校へ送り出した後の限られた時間の中で、穏やかに呼吸を落ち着け、手に記憶した土の感触を頼りに、力強く作陶に励む。
5年後の自分の未来を見据えて
門をくぐると大きな大楠の木が佇み、新緑の間から綺麗な木漏れ日を落とす。その奥には日差しがたっぷりと入る広い庭と趣のある日本家屋、庭では子どもたちが蝶を追いかけ走り回る。
横須賀・芦名にある岡崎さんのアトリエを併設した住まいは、先祖代々の土地を祖父母から譲り受けた場所。溜息が出るほど理想的で、穏やかな空間がそこにはある。環境が良いだけでなく、都心にいるとどうしても入ってきてしまう多くの情報が、ほどほどに遮断される。その距離感も心地良い。
「娘の小学校入学を機に、学校のある平日は横浜に拠点を置き、私は横須賀のアトリエに通勤。週末と、春休みや夏休みといった長い休みは家族みんなでこちらに来て過ごすデュアルライフを送っています。休日は近くの川や山を散歩したり、サーフィンをしたり。子供と夫が海でパドルサーフィンをして遊んでいるときは、砂浜で友人達と飲みながらのんびり過ごしています。ここは私も幼い頃から過ごしていた馴染みのある場所。特別な意識はしていないですが、毎日の暮らしの中で、見たり感じたり、触れたりしていることが、確実に創作活動に良い影響を与えてくれていると思います」
ひとつのことを続け極める岡崎さんに、2017年もうひとつの大きな転機が訪れる。がんの発覚、そして治療。それは、生活はもちろんのこと、物事や未来への考え方さえも大きく変えた。治療で、髪も一度リセット。生え変わったら、うねるようになったと髪質の変化を嘆いていたけれど、肩下まで伸びた艶やかな黒髪は、彼女が今、元気に暮らしている証だ。
「自分の命の有限。もう少し続くと思っていた命の期限が近いかもしれない。だから先のことを想像して描く前に、今をきちんと丁寧に、大事に積み重ねていこうという意識がより強くなりました。これは陶芸も同じで。今日習い始めた轆轤(ろくろ)が、明日先生と同じようにうまく回せるようになるわけではないし、今日作った器が明日作品として店頭に並ぶわけではない。修行や作業を続け、積み重ねていくことで出来上がっていく。日々の努力と、その一瞬一瞬を大切に過ごしているから、自ら夢を叶えることができるのだ、と。がんは5年がひと区切りと言われていて、私は1年後にその5年を迎えます。そこでひとつ区切れたら、自分の考え方がまた少し変わって、先のことも考えられるようになるかもしれない。今は5年後も変わらずに健康でいられたら良いなという思い一番が強いですね」
岡崎さんには、憧れの女性がいる。心を掴まれる先輩たちは皆、仕事を持ち立場も上の方が多い。共通して言えるのは、柔らかい雰囲気を纏い、内面から美しさが溢れ、格好いいということ。
「キャリアのある女性は、厳しいイメージがあるけれど、私が素敵だなと思う女性の先輩たちは皆、優しく、しなやかで、自由に生きている。バリバリ仕事もして子育てもして、すごく忙しいはずなのに、新しい趣味を見つけてそれを極めたり。暮らしぶりも丁寧で素敵で、余裕を感じる。私もいつかそんな先輩になりたいですね。時々、私の器を使って今日はこんな食卓にしましたって写真を送ってくださるのですが、その空間がすごく綺麗で。誰かの空間に私の分身である器がいて、雰囲気を明るくしていると思うとすごく嬉しい気持ちになります」
岡崎さんは家の中を豊かにする陶器と、外に向けて着飾る洋服はイコールと考えている。どちらも生活を豊かにしてくれるものであり、誰かの気持ちを変えられるものだと。
「いつか子供達と一緒に、海外で個展をしたい」とアトリエの外で遊ぶ子供たちを見つめる。あるいはもっと先へ。話していくうちにわかった。視線の先には、病気をする前は見えていなかった新しい未来が広がっている。子育ても、病気も、楽しさも厳しさもまるごと受け止めて、また新しいコレクションを生み出していく。誰かの食卓や空間に並ぶのが楽しみになる。
岡崎裕子/おかざきゆうこ 1976年東京都生まれ。1997年株式会社イッセイ ミヤケに入社、広報部に勤務。3年後退職し、茨城県笠間市の陶芸家・森田榮一氏に弟子入り。4年半の修行の後、笠間市窯業指導所釉薬科/石膏科修了。2007年神奈川県横須賀市にて独立。